First Day Inside Someone Else ch.1

誰かの中の1日目

西村 烏合

 

chapter 1

なぜ自分がここから物事を見ているのかわからない時がある。
解放されるのは、自分がどこに居るか忘れている時。
でもここはそんなに広くない。走ろうとして檻に頭をぶつけて、自分が閉じこめられていることを思い出す。

こんな自分を見ないでくれとティグラは思う。

―――――『自由なティグラ』             作者不詳



 「あなたに平安が訪れることを祈ります」
 ガーディアンが肩に手を置くと、青年は目の前の机に置かれたコップから、透明の液体を飲んだ。飲み干してコップを置くとガーディアンは青年を再びベッドに寝かせ、もう言葉をかけることなく、微笑みかけた。青年が意識を失うと、心電図をチェックしてからスタッフに声をかけた。
「彼の希望は火葬だったね。向こうの準備は?」
「大丈夫です」
「ありがとう」
 そう言ってスタッフから受け取った花の入った花瓶をベッドの横に置くと、ガーディアンの手が離れた直後、花瓶は大きな音を立てて割れた。陶器が砕け、水がテーブルやベッドに流れ出す。飾られていた花はめちゃくちゃになってあたりに飛び散った。窓を割った銃弾が、花瓶も貫いて破壊していた。
「殺人者よ!今すぐ惨殺行為をやめろ!」
 拡声器を通した声が外から響いた。そしてまた銃声。ガーディアンは花瓶の水に濡れた青年の体を掴んで守りながら、スタッフたちの方を見た。
「今度のは強硬手段が好きなタイプのようだ。話し合いで解決できる望みは薄い。彼を火葬場まで運ぶんだ。全員で彼を守れ」
 スタッフたちはうなずいて意識のない青年の体を担架に乗せた。部屋を出て、担架用エレベーターに7人しかいないスタッフが全員乗ったところで、「早く!」誰かが叫んだ。階段のほうから、急いで駆け上がってくる足音がする。その音を締め出すように、エレベーターの扉が閉まった。
 「まわりこまれていたら、おれが止めます」警備スタッフが言って、腰のホルスターから銃を抜いた。だがそれは鎮圧用の銃で、殺傷能力はない。ガーディアンは警備スタッフを睨んだ。
「わたしは望まない死は許さない。全員で逃げるんだ」
「でも彼を守らないと。彼の死を守るのは我々の役目です」
「全員の死を守るのが、わたしの役目だ」
 エレベーターの扉が開き、全員が外の様子を素早く窺う。「――なる命を踏みにじる野蛮な異常者よ!」響いたのは表の入り口からの音だった。目の前には誰もいない。今のうちに、という警備スタッフの声とともに全員がエレベーターから飛び出し、用意してあった移動用のバンに担架を乗せにかかった。すぐに車内の医療用モニターに青年を接続し、状態をチェックする。「投与後経過時間に対し異常なし。大丈夫です」スタッフの言葉にガーディアンは僅かに安堵した。
 「その若者をこちらに渡せ」
 今度の声は拡声器からではなかった。
 「全員降りて、その担架をゆっくりこちらへ運ぶんだ」
 武装した人間たちが搬入口に立ちはだかっていた。物々しい装備が見る者全員を威嚇している。
 バンに乗り込んだまま、スタッフたちは車内に取り付けられていた箱を開けた。中には自動小銃が入っている。 「相手は何人いる?」ガーディアンは言った。 「見えてるだけで十人います。全員武装してます」運転席の警備スタッフが言った。
 ガーディアンは、銃を掴もうとしているスタッフたちに身振りでやめるよう伝えると、一人でバンを降りた。
 「ガーディアン!」呼び止める声を無視し、ガーディアンは両手を上げてバンの前まで出て行った。すべての銃が一人の人物に狙いを定めた。
 「ずいぶん大勢で来てくださったんですね。わたしがお話を聞きます。スタッフたちは行かせてください」
 「だめだ。まず青年を解放しろ」リーダーの男が言った。
 「彼は自分の望みで来たのです。すでに投与が済んでいて意識もありません。蘇生措置を行っても元の彼には戻れない」
「望みがある限り蘇生措置を行う。再び息ができるようになるなら、彼を殺すことは許さんぞ」
 ガーディアンは両手を下ろした。武装した何人かの指が引き金にかかった。
「死を望んでいる人間を無理に生かし、彼らを助けるために人生を生きている我々を殺すのですか?」
「お前らはこの世のもっとも最低な害悪だ。生命を冒涜する殺人者が、これ以上口を利くな。言う通りにしろ」
 ガーディアンは白い虹彩で、武装した人間たちを見た。もう少し時間があれば。この人間たちも、取り返したいものが無ければ帰るしかないだろう。 「バンに乗ってるやつら、降りてこい、こいつがどうなってもいいのか!」
 なにかが破裂したような音がしたと思うと、搬入口のシャッターが甲高い金属音を立てながらものすごい勢いで降りはじめた。降りるというより壊れて落ちてきているように。ちょうどその真下に居た武装集団の人員が慌てふためきながら四散する。
「なにをしたんだ!」
 リーダーの男がガーディアンに近づきながら大声を上げ、手に持った銃を突きつけた。だが狂気に見開かれた目はそんなものがなくても命を奪うことが出来そうだった。怒り狂ったリーダーの背後で衝撃銃の発射音がし、シャッターで閉め出されなかった人員が倒れた。リーダーが振り返ると、その目には、建物内部に残っていた部下たちが次々に倒れていく光景が飛び込んできた。
「やめろ!」
 見えない敵に狙いをつけられないままリーダーはあちこちへ視線を投げたが、なにも見つけられない。
 自分から注意がそれた隙に、ガーディアンはバンの方を振り返った。中は見えないがこちらは無事らしい。運転席の警備員たちは何が起こったかわからない、と首を振っている。ガーディアンが狂気の男の方へ再び顔を向けると、焦りを顔に表したリーダーの二の腕を銃弾が貫き、武装した体が突き飛ばされるように地面に倒れた。
 今しかない。ガーディアンは銃に手を伸ばした。だがその手が届く前に狙撃者が姿を現した。
「あなたはそこでじっとしていてくれ」
 マネキンのように整った容姿の人間がこちらに近づいてきた。だが赤外線を感知してみると、人間とは温度が違うことに気付いた。アンドロイド、人工生命体だ。   ガーディアンは矛盾に困惑した。人工生命体なら人を狙撃したりできないはずだ。他に狙撃者がいるのか。だがこのアンドロイドの手には銃が握られている。矛盾の答えが見つからないうちに、視線の先の銃が軽く持ち上がり、発射された弾が武装集団のリーダーの額を撃ち抜いた。
「おれには関係のないことなんだが、一応聞いておく。大丈夫か」
 アンドロイドは美しく設計された無表情で言った。
 バンからはスタッフたちが降りてきて、二人の様子を窺っている。ガーディアンは絶命しているリーダーを見下ろしてから、救い主の方へまた顔を向けた。アンドロイドであるという以外に、なぜこんな事ができるのか、なぜここにいるのか、その正体を明らかにしそうな特徴は何一つなかった。
「大丈夫なのか」アンドロイドが催促した。
「わたしは、大丈夫ですが。なぜ…」
「こいつは安楽死のゆりかご(ユーサナシア・クレイドル)のガーディアンをすでに三人殺してる犯罪者だ」そう言って彼は、持っていた銃をしまって別のハンドガンを取り出すと、動かなくなった死体の首筋に向けて撃った。ガーディアンは咄嗟にその光景を見ることを拒否しようとした。だが首筋には穴が開くかわりに五センチほどの装置が埋め込まれ、記号のマイナスのような小さな横線が刻印されただけだった。
 それはハンドガンではなく、賞金稼ぎが使う転送マーカー用装置だった。
 横線の記号がゆっくりとガーディアンの脳裏に浸透した。判然としない事柄の場所に。このアンドロイドは、賞金稼ぎだ。
 だがもし本当に賞金稼ぎなら、なぜこのアンドロイドがそんなことを出来るかより、それが実際に目の前にいる事の方が重要だった。
 賞金稼ぎのアンドロイドは、ガーディアンの緊張した眼差しに気付いた素振りを見せた。
 「自分を殺そうとした相手でも、望まない死を迎えることは許さないのか?」
 アンドロイドはお互いの足元の死体を見下ろしてから言った。
「ええ、そうです、と申し上げたいですが」ガーディアンは戸惑いつつ、相手の様子を注意深く観察しながら言った。「わたしたちは、聖人ではない。等しく死の権利を守りたいが、話し合うことが出来ない人々を相手にすると結局矛盾してしまう。わたしはガーディアンとしての職務を果たしていくために、死ぬわけにはいかない。しかし、”この世のもっとも最低な害悪”が滅ぼされた世界を見るまで生き続けたいと願っている人々を目の前にして、彼らが望まない死を迎えずに、なおかつ、わたしも生き続けるということはとても難しい。時に、わたしたちが自ら他人の死の権利をねじまげてしまう。そのせいで恨みを買う事も多い」
 だから、この宇宙に蔓延する、ライセンスのないフリーの賞金稼ぎたちが毎日熱心に目を通している依頼リストに、ガーディアンの名前が載っていてもおかしくはないのだ。彼らにとれば自分自身以外の全員が標的になり得る。暗殺者の存在も危険だが、玉石混合の賞金稼ぎ集団に対して、暗殺者たちは全員がプロだ。もし狙われたとしたらそれを知る前に殺されているだろう。
「あなたが、わたしに用があって来たんではないといいのですが」
 ガーディアンは静かにそう言った。
「もしあったんなら二人まとめて狙えばいいだけの話じゃないか」
 アンドロイドは無表情で答えた。単純な答えに、ガーディアンは上手く言葉を返せなかった。確かにそうなのだが。
「ただ、命じゃないなら何に重きを置いてるのか知りたい」
 通信状況の悪さに顔をしかめて、マーカー用装置である銃をホルスターにしまいながらアンドロイドは真剣な表情をこちらへ向けた。軽蔑や皮肉の表現は感じられない。ガーディアンは自分がその表情に感応していることを興味深く受け止めた。そして常にそう心がけてはいるが、真摯に答えるべきだと感じた。この状況においてはひどくおかしなことではあったが。
「我々がやっているのは、簡単に言えば、死の権利を守ることです。知的生命体は、個人の命を尊重し生を拡張してきた。薬を発見し、病気を克服し、人工的な方法の介入を含んでも、命を生み育ててきた。ならば、なぜ生と表裏である死を拡張してはいけないのかということです。生と死に同時に向き合ってこそ、個人の命は尊重されるはず。これが今の所、我々ができる説明です。望む生と望む死が守られることが重要だと思っています」
「命を軽視しているわけではないということか」
「そのとおりです」
「だが、死と同じく生も絶対的、ということだよな?」
「そう言えるでしょう」
 アンドロイドはまた整った無表情に戻って、俯いた。その外観は単純な審美的アイコンのようだったが、その電子頭脳の内には単純なシステムから逸脱したものが渦巻いているのが感じられた。それが、銃を装備した賞金稼ぎのアンドロイドへの疑念と恐怖心をいつの間にか薄めていた。
 妙ではあるが一応の安全を感じ、ガーディアンは謎めいた賞金稼ぎからようやく視線を外した。そうして自由に動けるようになった目は、自然に一つの場所を見下ろした。
 リーダーの男は目を開けたまま永遠に静止している。三人を殺しているという言葉が、胸の奥に落ちた。すでに死んだ男に対し、感情がこみ上げてきた。だがこの男の手で望まない死がもたらされることは、もうない。情景を見つめ続けようとするガーディアンの視線を無視するように、マーカー装置が埋め込まれた場所が光った直後、男の体はその場から消えた。軌道上を周回している”マーケット”の船へと無事に死体が到着し、身元確認が済んだら、それに応じた金額が早速、マーカー装置と共に埋め込まれた識別番号所有者の口座に送金される。取引成立。
 ガーディアンは深呼吸して、その白い虹彩で、早々に去って行こうとしている賞金稼ぎの方を見た。
「怪我をしてます」
 白い上着を着ていたのでその”血”は見えにくかったが、腹部に傷を負っているのは気付いていた。
「治療させてください。ユーサナシアの処置以外も出来ますから」
 スタッフの一人はTRAPPIST-1系の医療支援用ロボットだ。自分に近い存在のダメージにも対処できるはずだ。
「それより、その青年のことを無事に済ませたほうがいいと思うが」
 賞金稼ぎは壁の装置をいじって搬入口のシャッターを巻き上げたが、半分ほど上がったところでそれは明らかに具合の悪い音を出して止まった。
「壊してすまない」
 賞金稼ぎは謝る仕草で手を挙げたのかと思ったが、その手には共通通貨が握られていた。握った手を振ってその存在を明示してから、彼はシャッターの巻き上げ装置の上に通貨を置いた。
「これで修理してくれ」
 一方的にそう言うと、賞金稼ぎはシャッターの向こうの日差しの中に姿を消した。ガーディアンはその謎を胸の内から追いやることはできないまま、バンの中に戻り、傷一つなく横たわっている青年の胸に手を置いた。
「彼は大丈夫だったか」
「はい、ガーディアン。彼は守られました」
 医療用モニターは心臓が停止していることを示していた。

 

アレックスは腹部の人工培養筋繊維がひきはがされていくのをじっと感じながら、睡眠モードの中に沈んでいった。損傷がひどいとまた金がかかるだろう。ガーディアンを殺していた男はその罪よりも騒音を出しすぎているという理由で排除を望まれていた。金額はそれなりだが、このアンドロイドボディ(AB)の修理費と維持費を引くと、どうしても肝心の貯金にまわす分が充分ではなくなる。
 アレックスの意識はシステムの内側へと向けられた。外部刺激の知覚は無効になり、生命を危険に曝すような脅威を感知するセンサーだけが機能を保ったまま、電子頭脳内部のイメージの中へ全ての意識が集中する。睡眠モードの中の記憶の再生機能がオンになり、アレックスは正確な記憶の中に入り込んでいく。

「アレックス。自分が誇らしいだろう。そう思ってるなら隠さなくていい。おれの前では正直でいいんだぞ」
「私はいつも正直です」
 所有者は笑って、大きな鏡に映った自分と、隣に立つ男を間接的に見つめた。親子ほども年齢が離れているように見える。
「ひどいもんだな。まったく。おまえとおれは似てると思う事すらあったのに。兄弟だと言っても通じるだろうと思ってた。もしおまえを連れて出歩けたらな。そうしたかったよずっと。おまえを、誇りに思ってたからだ。おまえは最初はなにも感じてなかった。おれと一緒に育ってきたんだ」
「そのとおりです。誇りに思ってもらえてうれしい」
 広すぎるリビングに二人の声が響いて、消えた。アレックスはこの家にはまだ馴染めなかった。正直に言って、いちばん落ち着くのは研究所のオフィスだった。自分が人生で一番長く過ごしてきたのはその場所であり、誇りに思えることがあるとすれば、そういった場所で自分が役立っていることだ。
 だがこれからは、この新品で豪奢で、一流だが、まだ慣れない家から、研究所まで二人で通うことになる。そうすればここは自分の人生の一部を自然と構成していくだろう。大きな記憶となって残っていくだろう。
 新しく自由に踏み出せる世界の最初の一歩になる。
「そういえば研究所からここまでの道に公園がありましたね。この区画でも最大級の。あるのは知ってましたが。動物園もあるんでしょう?さっき通った時は暗くて全体が見えなかったので、今度昼間にでも寄ってみたいです」
 新しい挑戦をして、もっと知識を増やせるんだ。そう思うとうれしい気持ちがわいてきた。研究所の学者たちともどこか、研究所以外のところへ行ける。まずは今度の調査に同行させてくれるよう頼んでみよう。
「おまえはおれのことをどう思ってる?」
 アレックスが言ったことは聞いていなかったかのように、所有者は切り出した。
「あなたは私の唯一の家族です。あなたがそう言ってくれた。私はあなたと働けていることが、嬉しい。私の事を最大限活かしてくれる。これからもあなたと一緒にいたいです」
 その気持ちは常に心にある。所有者は笑い返してくると思った。実際にそうした。だがそれは呆れたような、馬鹿にしたような笑顔だった。
「おれが年老いてなにもわからなくなっても一緒にいるのか?おまえのことも忘れたらどうする?いつまでも明瞭な頭ではいられないんだよ、おまえたちと違って、おれは衰えていくばかりだ。今まで努力して積み重ねてきたことが消えていく。それを使う時間があまりにも短すぎる。おれがなにも出来なくなったら、おれを捨てるだろう。おまえは、賢くなっていくだけだ。進歩して、その知識を使って、おれが開いてやった未来を生きるんだ。おれを、この立派な家に閉じ込めて死なせて、すべて自分のものにする気だろ」
 所有者は近くの机に置いてあった、ほとんど空になった酒の瓶を、全部屋に取り付けてある投影装置の一つに向かって投げた。それは命中しなかったが、今度はグラスを投げつけた。そしてグラスが割れる甲高い音と共にこの部屋の装置の一部が壊れた。
 アレックスは所有者の表情を読み取るために見つめようとした。だが顔を殴られ、床に倒れた。
「くそ、これじゃおれが馬鹿みたいだ。なんでこんな……」所有者は頭をかきむしるように抱えた。
「落ち着いてください」
 そう言っているアレックスも、いま受けた痛みは耐え難かった。生身の人間と区別がつかない実体という姿で痛みや衝撃になんの反応も示さないと、周囲の人間は妙な不快感を感じる。痛みに対する反応の表現はAB(アンドロイドボディ)には必ず備わっている。それは知っていたが、アレックスにとっては初めて感じるものだった。思考速度が遅くなり、頬に痺れが残る。
 だがこのまま何もしないわけにはいかない。
「私はあなたから何も奪う気はない。私はあなたと育ってきた。いまあなたが私に言ったことです。それなら、今度も教えてください。私はどうすればいいんですか」
 答えは返らないまま、起き上がろうとしたアレックスはまた所有者に殴り倒された。衝撃と痛みが繰り返しアレックスを襲った。拳から血が出ていることに気付いた所有者は、アレックスの体を引っ張り起こしてその後頭部を掴んだ。
「やめてください」
 アレックスは危機感からその言葉を発した。効果はなかった。所有者はアレックスの頭を思い切り壁に打ち付けた。アレックスは防御態勢を取ったが、頭部に一際重いダメージが与えられ、一瞬目の前が暗くなった。気が付くとあまりにも高い天井を見つめていた。照明が三分の一ほどしか点灯していないため、とても薄暗かった。時間としては十六秒しか経過していなかった。だが、根源的な危機感がアレックスの精神を揺さぶった。
 アレックスは床を這って、接続パネルのところまで行った。左目のセンサーがおかしくなり、景色がよく見えなくなっていたが、なんとか接続することができた。物理的に機械が壊れたことでうまく動かなくなっていた手足の不自由が一気に消えて、それと同時に痛みもなくなった。アレックスは投影装置によって部屋の中に現れた。
「私の…外見が気に入らないのなら、変えることはできます。加齢を表現することは可能で」
 そう言おうとして、アレックスは自分の姿を見つめた。血塗れになり、破壊された自分の顔を。生み出されたプログラム生命体(PLF)----としての容姿を忠実に再現した、世界に一つしかないもの。貸し出されたABではなく、自分であるもの。
 人間社会への貢献が認められ、転送を許可された自分のためだけのABだ。誰かに監視されることなく、呼び出されたかどうかも関係なく、自由に行動できる。投影装置がない場所にだって行ける。一市民としてのIDで。それは偽造でもなんでもない。なにを心配する必要もない。
 左目はつぶれ、むき出しになった内部の機構に白い血液が流れ込んで、牛乳を注いだコップのように見えた。口元のシンススキンは破れて歯の根元までが晒されている。額の部分は人工皮膚が剥がれ落ちて電子頭脳を覆う青白いプレートが覗いていた。これが誰なのかは、自分でもわからないほどだった。ワイシャツも白い血に塗れて、そのまま無言で佇んでいる姿は悪趣味なオブジェのようだ。
 それは自分の破壊された跡だった。違う。自分は傷ついていない。そうだろうか。アレックスは事実を確認した。自分が無傷でここにいることを。人格データのすべてはコアモジュールと共にABの中に移された。それさえ無事なら大丈夫だ。そのとき投影が乱れて、像が四散しそうになった。だがそれは投影装置が部分的に壊れていることによる一時的な不具合だった。
「おまえに自分の体が出来た途端これだ。これさえなきゃよかったんだ」
 所有者は、力なくABの背中を押し、床に倒した。それはただの人形のように大理石の床に転がって硬い音を立てた。
「でも同じことだ。無視してただけだ。結局おまえは不死の存在なんだ。おまえと一緒になんか生きられない」
 なぜこんなことになったのかアレックスには理解できなかった。人間についてわからないことは、すべて目の前の相手に聞いてきた。そうして教わってきた。だがそれが出来なければ、どうすればいいのかわからない。
 所有者は俯いて突然キッチンの中へ消えると、持ってきた銃でアレックスのABを撃った。頭を破壊されたかとアレックスは思った。だが撃ち抜かれたのは首だった。千切れかかった首に手をかけた所有者は、悪態をつき、唸りながら手に力を込めてその頭部を体から切り離した。そうしてから、なにかを思い出したかのように投影装置を閉鎖モードに設定すると、ハンディを取り出してどこかへ電話をかけた。荒く息をしているせいで声は乱れていた。だが相手に伝わる程度には明瞭だった。
「うちのPLFが暴走して襲ってきた。今すぐ来てくれ。頼む」
 突然の死刑宣告は、混乱したアレックスのほとんど全ての意識を自分の保護に向けさせた。「やめてください」そう言いながらアレックスは所有者に駆け寄った。「お願いです。私は人の役に立つために生み出されたんです。データセンターに閉じ込められたら生きていけません」
 すがろうとした手は振り払われた。
「やめてください。あなたは混乱しているだけです。考え直してください。お願いします」
 恐ろしい顔が、自分を見つめて言った。
「生きているだけで有り難いと思え」
 所有者は投影装置の強制シャットダウンを行った。瞬間、暗闇が広がり、家のPLFルーム内に作られた仮想の行動空間のアレックスの部屋が1秒以内に表れた。アレックスは投影空間に出るためのドア、玄関のドアを開けようとした。だがそれはドアの形をした壁と化していた。少しも動く気配はない。他のドアも同じだった。アレックスは死に追い込まれた人間のようにドアを叩いた。その振動で、壁に飾られていた研究所のオフィスで撮った写真が落ちてガラスが割れた。そこに写っているものが真実だ。アレックスはそう思っていた。なにが起きているのかわからないまま、破壊的な暴力に追い詰められ、ここから出なければということしか考えられなくなっていた。
 十八分後、閉じ込められているアレックスの目に玄関が破壊されたイメージが見えて、すべてが消えた。

「もう終わったけど。いつまで夢の中にいるつもり?」
「記憶を振り返ってただけだ。ただの録画を」
 手術台から起き上がりながらアレックスは言った。
「腹部の傷はそれほど深刻じゃなかったよ。でもこのABの筋線維は一流どころじゃなくて過剰供給だよね。はっきり言って。開けてびっくりってかんじ。ぜんぶ白に染めてあった。しかも人工培養だし。どこの誰が作ったのか知らないけど」
「部屋のインテリアにでもしたかったんじゃないか」
「三次元のAB解体図って、いい趣味じゃないね」
「おれは使えればそれでいい」
 修理人は首を振りながら呆れた顔をして、それでも請求金額を正確にパネルに打ち込んだ。味気の無い白いライトの下で、修理人の手は病的に青白く照らされている。彼女は生身のヒューマノイドだが、アレックスの方が随分健康的に見えた。
 アレックスはその健康的な自分の胴体を見下ろした。銃創はきれいに修復されて、傷一つない。このABは一つ前のものより高級品だ。損傷個所を完璧に修理できなくても当然だ。だがピジアは腕がいい。今回もそれを証明してくれた。
「この星以外では仕事はしないのか?」
 共通通貨のデジタル転送をしながらアレックスは尋ねた。
「今のところはここが拠点だから。いちおう、生まれ故郷だし」
「ここが?」
「みんなそう言うけど。この星にだって病院はあるし、星系住民登録だってある。そんな記録もう消してるとしてもだよ。もとはあったわけだから。貨物船生まれって言ったほうが誰も掘り下げないって、考えてみたらおかしくない?どんな惑星だろうと、これだけ人がいるところで生まれるって方が、宇宙空間で生まれるよりありそうなもんだけど」
「貨物船は人が定着する場所だ。キャラバン・プラネットには誰も定着しない。それが大方の意見だ」
「まあ私も、ここで死のうと思ってるわけじゃないけど」
「じゃあおれの専属修理人にならないか?」
「プロポーズじゃないよね。一応確認するけど」
 なんの興味もなさそうな顔で転送された金額を確認すると、ピジアは修理道具を片付け始めた。
「移動する星ごとに優秀な修理人を見つけるのは、時間のかかる作業だ。適当な依頼を見つけることよりそっちのほうが難しい。専属がいれば助かる」
 ピジアは片付ける手を動かし続けながら、栗色の瞳をこちらへ向けた。用心深い目だった。非合法な仕事を請け負う修理人は誰でもこんな目をしている。腕の良し悪しに関わらず。その裏にあるのは、侵入者を防ぐための警戒心ではなく、自分だけが属する世界から引きずり出されないための警戒心だ。自分の決めたテリトリーから出るつもりはない。聞き出してみるといつもそうだった。
 それでも、修理人は必要だ。
「承諾しないのわかってるでしょ」ピジアは言った。
「ああ、九割は。だが、解決したい問題の一つだからな。望みは薄くても交渉する必要がある」
「じゃあノーってはっきり言うよ」
 ピジアは断固とした態度を表すように、修理道具の入った箱をばたんと閉じた。
 彼らは決まって、なぜ自分のテリトリーから出たくないのか、その詳細をはっきり言わない。はっきりと断りはするが。なぜなのか、詳しく説明してくれた人数はゼロだ。今まで八人の修理人と交渉した。三人はすでに他の、地元の誰かと契約をしていた。残りはただ「NO」という言葉を五回聞いただけだ。
 とくに理由もないのかもしれない。アレックスは、そういった答えも選択肢に入れなければいけないといつも考えていた。機能が備わってないとか、エラーが起きたとか、ヒューマノイドには明確に説明可能な理由というものが常にあるわけではない。きっかけがゼロなわけではない。だが、そういったすべてが関わり、分断され、またつながって、本人でさえ気付けない無限の像が広がっている。
 アレックスは立ち上がって、新しく用意してあったシャツとジャケットを着た。これも追加料金としてしっかり請求されている。「あと1、2回は世話になるかもしれない。それは断るなよ」ジャケットの前を閉めながらアレックスは言った。
「断る訳ないじゃん。結婚はできなくても、きみを直すのは楽しいし好きだからさ」
 アレックスは腑に落ちない顔で、密閉された修理部屋を後にした。表の書店に差し込む陽の光が、視界を眩しく照らした。修理人の冗談は理解しにくい。

 今日おすすめのヴァーチャル・ウォーキング、今日おすすめの音楽、今日おすすめの記事、今日おすすめのリラクゼーションセント。カスタマイズされた楽しみの中から、ターゲットは自分の好きなものを選んでいた。
 アレックスは超遠距離用スコープから顔を離して、この惑星にあるエフィシオ・サロンの場所を調べた。中心地区のビルの中にある。ターゲットは自宅のものではなく、エフィシオ・サロンのヴァーチャルラウンジに行っておすすめのプログラムを試す予定らしい。昨日尾行中にハッキングしておいたデータによれば、そのあとは中心地区で人と会う予定がある。名前を見ただけでは、ビジネスの相手なのか、恋人なのか、暇つぶしのための相手なのかはわからない。探りを入れて特定することは無意味だ。どちらにしたって、約束通り会うこともない。
 この惑星上では比較的安全性の高いホテルの部屋から出て、呼んでおいたタクシーに乗るためにターゲットは屋上へ向かっていった。
 中心地区よりもホテルの部屋で仕留める方が遥かに良い。人目も最小限で、誰にも気付かれずにできる。だがエフィシオの会員が泊まるようなセキュリティを備えたホテルに入るには、準備が要る。時間をかけて入ることが出来たとして、こんどは死体を転送することができない。このレベルの高級ホテルにおいて、転送やハッキングによる物質、非物質を問わない盗難防止の通信制限がかかっていないとなると、神経質な金持ち連中からすぐに苦情が来て運営などしていられない。
 アレックスはホバーバイクに乗って中心地区へ向けて飛び始めた。まだ昼前の穏やかな暖かさの下で、密集した建物の間に人の渦が溢れ出そうとしていた。住宅街というものがないこの惑星上では、空いている土地はすべて商売、経済、原始的に取引という名におさまる目一杯の行為のために使われている。宿は一か所に密集しているためその地区は静かに見えるが表向きだけで、商人たちの熱心な争いは場所を選ばない。放っておいても宿泊客は次々やってくるが、それならば自分の土地と宿をもっと増やしてもっと儲けをあげなければならない。その為に戦わない奴はネズミさえ泊める資格はない。それが当然の美徳。そのほかに残されている海や森も、すべて誰かに買い取られて管理されている。
 中心地区へ迫るにつれて商人たちの争いの様相はひどくなるばかりだが、軌道エレベーターのターミナルや病院など、まともな機能を有した施設もそこにあるため、ある程度の秩序が期待できる場所もなくはない。だがその僅かばかりの秩序は混沌を引き立てるためにそこにあるとしか思えないこともある。
 それで正常でありそれが日常。最初の旅人の休息の地から宇宙の無法地帯へ、そして今はその両方の性格を器用に保って、ただそこにある真っ暗な宇宙を照らすモーテルのように、誰であろうと歓迎する。そのモーテルの看板にはひと目見るだけで旅人たちが安堵する”キャラバン・プラネット”の文字が輝く。ここはキャラバン・プラネット115。最初の旅人たちが残した115番目の休息地だ。
 おそらく、おおよその類の犯罪者、逃亡者に適した土地。無害な旅行者はただ気を付けるしか身を守る方法はない。ここには商人たちのルールと、商人たちの利益のために動く治安維持部隊しか、わかりやすい権力は存在しない。冷徹な番人である惑星間連盟軍の保護は及ばず、危険視され続け、それでも宇宙をつなぐ航路の唯一の道標として誰も破壊することはできない自由の土地だ。

 アレックスはまだ最大限に混み合ってはいないキャラバン・プラネットの交通網を通り抜けながら、エフィシオ・サロンが入っているビルの設計図がダウンロードされているかチェックした。完了している。ビルに着いてから目を通すので間に合うだろう。
 直接電子頭脳の中に入れることはできるが、アレックスは滅多にそういうことはやらなかった。必ず外部機器にダウンロードしてから、見るなり聞くなりして情報を入れる。それだけで充分だ。専属になることを誘った修理人の一人の表現を使うと、カバンの中にはその容量だけなんでも物が入るわけだが、ラップトップが入っているとこに直接、昼飯のグリルチーズサンドを突っ込んだりしない。入るからといって、なんでも入れればいいという事じゃない。アレックスは後者の説明で足りると思ったが、いちいち回りくどいことを言う修理人だった。
 向かっていたビルから少し離れた場所に降りて行って、アレックスはホバーバイクを駐車した。駐車場はほぼ埋まっていたが、出入りも激しかった。誰かが空中へ飛んで行くと、降りてきた別のバイクが駐車する。始終この繰り返し。だがすぐ近くに居た若いステリオ人はその場に留まり、焦りながらどこかに電話をかけていた。そばにあるバイクは車体の後部がへこんでいる。交通の波にもまれて壊したらしい。アレックスは、今すぐ修理に来てくれとまくしたてる声の横を通り過ぎて駐車場を出た。
 目的の場所は、八階にあった。アレックスは遠目から様子を窺った。エフィシオ・サロンのロビーには会員たちが何人も居た。地球にあるという本社の指示で、太陽系を中心として二十以上の恒星系で環境統合化ビジネスを展開しているエフィシオのメンバーたち。
 彼らは様々な場所に行きはするが、滞在するのはすべてエフィシオが各地に確保しているホテルの部屋だ。滞在中の空き時間は少ないが、ある場合はこのサロンで体を動かしたり、マッサージを受けたりできる。忙しい会員たちへ本社からの感謝の気持ちだ。会員たちは宇宙を飛び回りながら、エフィシオの用意した世界の中でのみ生きる。それがあまりにも自然に行われる公正な行為であるため、その生活が普通であると思っている。しばしばそのバリアの外に別形態のルールを有する世界があることを、忘れてしまう。
 だからこういった土地に来て、すこしだけ好奇心が湧いて外を覗こうとすると、トラブルに巻き込まれる。それを使う時間がないから、エフィシオの会員は金だけは豊富に持っている。当然いいカモにされている間はよくしてもらえる。だがそれが問題を大きくする。
 アレックスはヴァーチャルウォーキング用のスペースから出て来たターゲットを目視しながら、ハッキングしたターゲットのハンディから取っている位置情報が正確に掴めているかを、自分のハンディで確かめた。
 誰との取引を反故にしたのか、騙そうとしたのか知らないが、エフィシオの会員をターゲットとして指定してくる理由として考えられるのはそういうものだ。なににせよ、報酬は高額であり、アレックスはそれで充分だった。賞金稼ぎにとっても例外なく、彼らはいいカモだ。
 アレックスはトイレへ向かったターゲットの後をつけた。ヒューマノイドの記号がついたドアの向こうに消えた後ろ姿を追っていく。入ってすぐに手を洗いながら、用を足しているターゲットをとりあえずそのままにして、先客がいないか探ってみる。誰もいないようだ。宣伝の音声だけが無機質な空間に響いている。
「このヒューマノイド用化粧室は、エスペック・エクスペリエンス社のSPQ-CR2Xによって清掃されています。実機をご覧になりたい方は、是非クアッドのロボット店までお越しください」
 そんなに髪型が気になるのかこの男は、ターゲットのそんな目を視界に捉えながら、アレックスはターゲットが手を洗い終わるのを待った。
 常にABの中に入っていても、アレックスはこういう時に自分のPLFらしさというものを感じた。やはり排泄による汚れとそれを毎回洗浄しなければいけないこと、その洗浄のレベルが個体間でまちまちだというのは、無視できる話ではない。生まれた時から自分の器を持っているという感覚は、やはり理解の及ばないところだ。
 アレックスはターゲットが石鹸を使わなかったことを極力考えないようにして、銃を抜いた。
 電磁パルスが周囲一帯の電子機器を襲った。アレックスの銃の電子照準器の光が消えた。ターゲットは驚愕しながらも、作り出された貴重な隙を見逃さずにトイレから飛び出した。アレックスは目が見えなくなったことに気付いた。
 暗闇の中でターゲットが逃げていく足音だけが耳に響いた。
 電磁パルスから身を守ることは無許可でABに入ったPLFにとっては必須の処置だ。だが眼球は唯一補強しようがない場所だ。これほど至近距離でEMP爆弾を浴びることには当然耐えられなかった。
 護身用の電磁パルス発生器はどれも高価だが、そのなかでもさらに一流の製品でなければ、銃の電子照準ビームに1秒以下の速度で反応して所持者を守ることはできない。なのであまり一般的には使われない。普段の生活で自分たちが誰かの恨みを買うとはまったく思っていないエフィシオの会員などは、偏執病ででもないかぎり持っているわけがない。自分たちが異星人社会で犯す間違いについて、何も考えていないような彼らなら特に。
 だが今回のターゲットは違ったらしい。自分がヘマをしたとわかっている。それか偏執病か。
 アレックスはカメラ映像を使わない距離センサを起動させて、障害物と自分との距離を測りながらトイレを出た。もうヒューマノイドの記号もなにも見えないドアが背後で閉まった音がした。グリルチーズサンドを突っ込むのは嫌だ。だがやむをえずハンディと自分の電子頭脳をケーブルで接続し、ターゲットの位置を探った。移動速度からするとまだ必死に走っている。アレックスはすぐに後を追った。
 フロア一帯は電気が消え、客を誘うイメージを映し出すための電光パネルも真っ黒に沈黙し、ショートしたいくつかの電子機器が火花を散らしていた。その様子はすべてアレックスの目には見えなかったが、パニックになった客たちの混乱した声だけは聞こえた。距離センサはすばやく動く人の群れに困難な仕事を要求され、すぐにでも音を上げそうだったが、アレックスは強引に障害物の波をかきわけていった。
 人の体にぶつかる感触が手や肩や腰に感じられる。ターゲットは屋上に向かっている。ターゲットがハンディを使って、乗ってきたまま待たせておいたタクシーに「すぐ発進できるようにしろ」と伝える声が、アレックスの脳内に響いた。今すぐタクシーに潜り込みたいだろう勢いで、リフトに乗り込んで上昇を始める。このまま追いかけると間に合わない。アレックスはビルの設計図を頭の中で調べた。ターゲットが乗ったのは通常のリフトだ。アレックスは一番近くにある直通リフトで屋上まで一気に上がった。
 治安部隊はまだ到着していない。サイレンも警告する声も降り注いでこない。銃撃があったわけでも攻撃を目撃した人間がいたわけでもないのだから、ビルのスタッフは原因不明の停電に慌てているだけで、まだ治安部隊には連絡していないのかもしれない。
 だがタクシーはどこにも見当たらなかった。
 アレックスは近くにあったホバーバイクをハッキングすると、それにまたがって、混沌と化した昼のキャラバン・プラネットの空中交通網の中に飛び出した。けたたましい音が四方八方からアレックスを包む。ホバー装置の噴射音、クラクション、怒声、とてつもないスピードで混沌を突き抜けるエンパイアピザのバイクの音。アレックスは軌道エレベーター港の方面へ流れる道をすり抜けながら進んだ。周囲の混沌と一体化するようにして。そうしながらハンディのカメラから視界を得た。限られた視野だったが、ターゲットの乗り込んでいるタクシーをその視界の中に捉えた。
 そのときターゲットの位置情報は地上へとまっさかさまに落下していった。タクシーは猛スピードで進んでいく。ハンディを捨てるのは、すこし遅かったな。アレックスはそう思いながら、電磁パルス発生器は身に着けていても、エフィシオの会員は誰かに追われることには慣れていないのだと再認識する。だがそのおかげで見失わずに済んだ。
 カメラで捉えた車体の姿だけを頼りに距離を詰めると、アレックスは拳を握りしめた。割れたガラスが遥か下の地上に落ちる前に、ターゲットは窓を突き破ってきたアレックスの手に頭を掴まれ、座席に思い切り頭を打ち付けられて気を失った。
 タクシーの運転手は、襲撃者の言うことをおとなしく聞いて、タクシーを地上へ、大通りから外れた狭苦しい路地へと降ろした。

 気絶した体を引きずり下ろすと、アレックスは窓の修理代を運転手に渡した。こういった惑星のタクシー運転手はなにかを訴えることにかけては他の追随を許さない。一日に同じ種族を複数回乗せることのほうが少ないほど多様な客を相手に、適正な金額を払わせることと、出来る限り自分が潤うように調整を加えるのは、成功する運転手にとって必須のテクニックだ。訴えるといってもID追跡屋(スニッファー)や商人ギルドだが、目をつけられると厄介だ。それなら窓1枚の金くらい払った方がいい。運転手はおずおずと共通通貨を受け取りながら、値踏みするような目つきが、胸ポケットに入れたハンディのカメラを通して見えた。その視線に見せつけるようにアレックスは腰から銃を抜いた。引き際を見極めるのも必要な技能だ。タクシーは再び浮上していった。
 アレックスは電子照準器の壊れた銃をターゲットの胸に向けて発射した。
 足を投げ出して路地の壁にもたれたターゲットの体、その銃弾に貫かれた場所から赤い血が流れ出した。血は赤でないこともあるが、白いことはない。
 アレックスは白い液体が流れ出ている自分の拳を見つめた。培養筋繊維の品質を保っている乳白色の液体が数滴、地面に落ちていた。ターゲットに弾を撃ち込んだとき白い液体が流れ出してきたとしたら、何か違うことを感じるのかと考えてみたことがある。何度も。だがそんなことは一度も体験したことがない。
 ドアの開閉音が響き、どこかの店かなにかの裏口から出て来た人物が、アレックスと倒れた体をちらりと見た。緑色の目が薄暗い路地の影の中でもわずかな光を集めて、自ら光を放つ虫のようにその場に浮かんでいた。武器を誇示する必要もなく、たまたまそこにとまっていた鳥を見るような視線をアレックスから外すと、その人物はそのまま大通りの喧騒と焼きつけるような陽光の中に出て行った。
 アレックスはさっさと転送マーカーをターゲットの首に撃ち込んだ。体が消えるのを見届けてから、弁償することのできない誰かのホバーバイクに乗り、片方だけ合成皮膚の破れた手でハンドルを握りしめ、波に流されるように狂気の交通の流れの中に紛れ込んだ。エンパイアピザのバイクのスピーカーから、リアル・テイスト・オブ・テラ!という陽気な声が鳴り響いていた。



chapter 2 につづく

投稿者: Ugo

Posting my original novel. Eager for the world of other sun.